信念とか環境適応とかに関する寝言

 信念とか信条とかを貫き通すことと環境適応することとは必ずしも両立しないこともあると思うんだけど、そういうときにどちらを選ぶかというのは究極の選択の一つなのかも知れない。個人レベルで考えたときに、たとえば、よくわからないけれど、武士の精神というかなんというか、それを貫こうとしたがために明治維新前後の日本の大きな変化に対応できずに居場所を失った人とかもいそう。わりとイメージで話しているけれど。でも、環境に適応することって、ことによると信念を曲げることになる場合だってあるだろうから、程度の差はあれ、常につきまとう問題なのかもしれない。
 個人のレベルであれば、まぁ当人がどう考えるかというところで、社会的にはそんな大きな問題ではないかもしれない。ただ、ことが企業とか比較的大きな組織となると話が変わってくる。環境適応できなければ滅びる。企業で言えば、潰れる。企業の社会的影響力は、もちろん大小様々だけれど、少なくともある特定の個人が一人死ぬなどしていなくなってしまうよりは大きいだろう。*1そうなってくると、むやみに信条を貫くことを是とするのは危険かも知れない。個人レベルでも共通して言えることだけれど、競争で優位に立つためには環境に適応しなければならない。信条を貫くことによって環境適応が不十分になるのであれば、そこで信条を貫くことは競争から降りることになると言えるだろう。これは、個人レベルでは許されるだろう。ただ、企業とかのレベルでは、その存在意義からして、競争から降りることは基本的に考えられない。そう考えると、時には信条を曲げることだって必要なんじゃないか。信条を貫くことで競争に負けるというのは、本末転倒ではないか。
 もちろん、その信念とか信条とかの中に、環境適応することが包含されていれば、一番良いのかも知れない。というか、そうあるべきなんじゃないか。組織の理念みたいなものは、自慰的なものであっては駄目で、それが組織を取り巻く環境になじむものでなければ駄目なんじゃないか。


 寝る前の寝言です。

*1:もっとも、その個人が現任の米国大統領であるとかいう特殊な場合にはわからないけれど。