文系と理系

僕は文系。
文系であることに誇りを持っている。
世界の長い歴史において、現代に至るまで僕らの知るような社会制度を創りあげ、整えてきたのはいわゆる文系的な人々だった。
尤も、当初は文系理系なんていう区別はなかったろうし(例えばデカルトのように数学者であり哲学者という偉人は数多く存在する)、今だって理系でありながら哲学者だったり法学者だったり政治家だったりという場合も多々見られる。
ただ僕が言いたいのは、社会制度を整えるための学問が現在では主に文系という部類に属しているということだ(これはまぁそもそも自然科学と呼ばれる学問が理系とされていることから当たり前といってしまえば当たり前なのだが)。


具体的にいうと、僕は商学部であり、将来は公認会計士として働くつもりだが、この公認会計士の主な業務は企業会計監査である。
この監査業務は、おおざっぱに言ってしまえば、企業の活動状態を明らかにすることで投資家や債権者を保護し、ひいては社会全体の経済活動を正常化及びその維持という役割を担っていると言える。
このように会計という側面から社会制度を支えられることに(あくまで公認会計士になれる前提ですが)、僕は誇りを持っている。


そして僕はそれと同時に、理系の人たちに対して尊敬の念を抱いている。
言うまでもなく現代に至るまで科学の進歩を支えてきたのは理系と呼ばれる人々だ。
日常僕らが何気なく使っている電化製品などは、よく考えてみると訳のわからないものばかりである。
例えばテレビ。
テレビ局が発信し、その電波を受信してその情報を画面に映す。
このプロセスについてどんなに科学理論、数式を前に出されて、そしてそれらをちゃんとに理解したとしても、結局その一連の流れができあがって目の前に映像が流れるというこの奇跡は到底頭じゃ理解できない。
今僕がこうやって使用しているコンピュータだってそうだ。
様々なコンピュータプログラムとか、まさに今利用しているインターネットサービスだとか、どれもどんなに理論を教えてもらったって、僕からしてみればそんなのすべて奇跡である。
研究者にとってみれば、自分たちの理論で思い通りに操ってるわけだから奇跡だなんて1ミリも思ってないかも知れないが、やはりそうでない僕らからすれば異次元の世界だし、だからこそ僕は理系の人たちを尊敬してやまないというわけだ。


では結局どっちの方が偉いのかといったら、当然言うまでもなくどちらのほうともいえない。
文明の発展はどちらが欠けても有り得ない。


つまり、20世紀後半から指摘されてきた科学の進歩による弊害を克服することもある意味で文明の発展であるとするならば、やはりここでも文系と理系が相互に協力する必要があるということだ。
科学の進歩は科学の進歩で乗り越えるというのはもっともな意見ではあるが、実際にはそれを支える社会制度が不可欠である。
政治経済面から科学の進歩を支えていく努力がこれまで以上に必要になってくるだろう。


そのためには、自然科学に通じた政治家、人文科学・社会科学に対して理解の深い科学者の存在が必要であり、さらに言えば、教養人を育む教育というものがこれから求められるだろう。


しかし果たして現在の日本の教育者たちはみんなが教養人であると言えるだろうか。
教養人の教育には教養人が必要であるのに、現在の日本はそれに対して十分であると言えるだろうか。
大いに疑問である。