チラリズム

男の男による男のための哲学。


男であればほぼ例外なくチラリズムというものに情欲の念を覚える。チラリズムの何が僕らをしてそうさせるのだろうか。今日はそのようなことを考察してみよう。
まず、僕が思うに、チラリズムは二種類に分けられる。一つはいわゆるパンチラなどに代表される、普段見えてない部分が実体として確認できるという、いわば可視的チラリズムである。そしてもう一つは「見えそうで見えない」極限状態にある、いわば不可視的チラリズムである。チラリズムの本来的意味を考えれば前者こそがまさにそれなのであろうが、最近の男はむしろ後者を求める傾向が強いように思われる。したがって今回は後者を中心に考察しようと思う。
しかしその前に、なぜ世の男は可視性だけに物足りず、むしろ逆に不可視性を求めるようになったのかという疑問がある。この問題は、ファッションの在り方として以前は女性の慎ましさが重視され、露出というものが社会的タブーとなっていたのが、最近ではその露出がよしとされ、女性が少しでも多く肌を見せようとするような傾向から説明できる。すなわちこういうことである。その露出傾向の中で、例えばローライズジーンズが流行したり、ミニスカートの丈がより一層短くなったりし、いわゆる「見せパン」だとか、最近ではさらに「見せブラ」なる、「他人に見られても恥ずかしくない下着」というものが発明された。この過程の中で可視的チラリズムの価値が減少し、相対的に不可視的な方の価値が増加したのである。
ここに一つ気づくことがある。それは、男の情欲が女性の廉恥に強く関わっているということである。もちろん、「他人に見られても恥ずかしくない下着」などの発明により、可視的チラリズムの絶対量が増えたことによる減価というものも大いに考えられるが、それよりもむしろこれは廉恥の問題であると僕は思う。なぜならば、例えばパンチラを目撃し少し得した気分になっているところに、何らかの原因で(具体的にどのような要因が存在するのかは今回は考えないとして)それが実は単なる見せパンだったということがわかったらどうであろうか。多くの男性諸君は一種の「萎え」を体験すると思う。つまり、僕らは「見えるか見えないか」という問題ではなく、清廉な女性が恥じるその羞恥心に「萌え」を感じているのである。
また、不可視性にはもう一つの優位性、男が惹かれる、可視性にはないもう一つの魅力がある。それは「想像」である。つまり、その実体が目に映るまではそこには想像が広がる。言ってみれば、あの子のスカートの中は僕のものなのである。そのスカート内の空間はもはやそこにあるものではなく、僕しか知らない想像空間なのである。そしてその想像空間は無限に広がっていく可能性を持ち、無限の妄想を可能にする。しかし、一度実体を目の当たりにしてしまえばその想像空間は広がりを止めるだけでなく、破壊されてしまうのである。僕らはそんな「僕だけのもの」であり、しかし脆い、この想像空間に価値を見いだしているのである。あの実際にパンツが見えてしまったときに僕らが感じる、チラリズムの本来の意味から考えればいわば逆説的な怒りは、この想像空間の破壊によるものであるといえる。
結局、廉恥と想像こそがチラリズムの本質なのである。