TOO FAST TO LIVE TOO YOUNG TO DIE

この間のモラトリアムと同じような話になってしまうんだけど...僕の友人に本当に頑張っている人がいるんです。自分でいろんな経営者の人にアポイントメントとっていろんなこと話して、経営について考えたり、今度は自分が経営の側にもたったりとか。歳で言えば一つ上にはなるんだけど、それにしても同年代として本当に尊敬できるレベル。大学で知り合って良かったなぁと思う数少ない人間。
だけどなぜそこまで生き急ぐのだろうとどうしても僕は思ってしまう。彼に問えば必ず、一言で言えば「太く生きたいから」みたいな感じで返すというのもわかってるのだけども。そもそも僕は太く生きる必要性というものを感じないのであって、それに関して問うてもおそらく「人生いつ何時何が起きるかわからないからとにかく今を生きる」みたいなことを言うのだろうけども、僕はそこに因果を見いだせない。なんというかうまく言い表すことができないのだけど、別に明日死ぬかも知れないとはいっても今そんなに太く生きる必要もなければ、だからといって細く長く生きようという志向があるわけでもなく。強いて僕の人生志向を言葉で表すならば、それは「永遠」だから。
確かに誰もが明日、もしかしたら数時間後、数秒後、突然死ぬかも知れない。だけどそれはあくまで「かも知れない」にすぎないのであって、実際にそうなるかはわからない。例えば何時間後に確実に死にます、みたいな宣告されれば、それまでにとにかくやり残したことをできるだけしたい(要するに太く生きたい)と思うかも知れないけど、仮に医者にそう言われたとしても現実的にはそれだって「かも知れない」の領域を出ることはなく、(確実性ではなく)可能性というものがつきまとう限りはそんなこと誰にもわからない不可知のことでしかない。それに実際、そのような可能性も大きく認めたとしても果たして「明日死ぬかも知れない」という観念にとらわれながら行動しているのかといったら大概はそんなことはなくて、意識的にしても無意識的にしても「明日も明後日も来年も何十年後も生きている」前提で行動してるはずなんだ。可能性は可能性として確かにあるにしても僕らはそれを認めながらも否定しながら(矛盾したような言い方だけど)生きているに違いない。要するに「いつかは死ぬ」なんてことは常識として認識しているし、その「いつか」が本当にいつなのかもわからない(明日かも知れない)のはわかっていながらも、現在自分が認識できる時間軸においては生き続けるという前提の下で常に行動していると言うことだ。これが「永遠」ということ。
だから太く短くも細く長くも確かにその人のモットー的なものとしてはあり得るけど本質的には意味をなさない言葉だと僕は考えている。そもそも生きていく上で時間軸の長さを意識することは不可能だ。だとすればおそらくその長さに対する相対概念としてのここでの太くとか細くとかっていうのも不可能だ。
だから結局、太く短くだとか細く長くだとか考えないで、マイペースに頑張っていけば良いのだと思う。大学生のうちにしかできないことはいっぱいある。そんなに社会生活を急がなくても、この学校という閉鎖世界でしかできないこともたくさんあるんだから今はそれを楽しめばいいと思う。
ただ、走るのが得意な人が苦手な人のペースで走ろうとすれば余計に体力を使うように、もともとマイペースというのが人より早い人も当然いるから、もし彼がもともとそういうタイプの人間なのであれば安心して見ていられる。無理していなければなんでもいい。
とにかく生き急ぐのは良くない。