世界に一つだけの花

今日早めに家に帰ってきてテレビをつけると、ミュージックステーションがやっていました。今日はちょうどスペシャルで、もう一度聴きたい曲ベスト100×2ということで、昭和と平成の名曲のランキング紹介がメインだったよう。僕が見たのは最後のベスト10くらいだったのだけど、平成の一位はSMAPの「世界に一つだけの花」でした。
別にSMAPや槇原さんを否定するつもりは毛頭ないのだけれども、この歌の一番のメインフレーズとも言える「ナンバーワンにならなくてもいい 元々特別なオンリーワン」という歌詞について少しばかり思うところがあるので書かせてもらいます。
なぜこのようなことを書こうと思ったかと言えば、テレビを見ながら僕が親との会話の中で「こんな歌があるからゆとりが進むんだ」と何気なく言ったことからでした。僕はなんでもちょっとしたことを特に深い意味はないけどとりあえず揶揄したいみたいな傾向があるので、今回の発言もそのような性格をもつものでした。そして、それに対して親は「いや、そうじゃないでしょ。オンリーワンでもオンリーワンなりに頑張ればそれでいいんでしょ。頑張らないからだめなんだ」と指摘しました。
おそらくこの歌詞をこのように解釈している人は多いのではないでしょうか。確かにこのように考えれば、自分の日々のちょっとした頑張りも報われるような気がしますね。しかし果たしてそうなのでしょうか。実はここには大きな矛盾が孕んでいると僕は思うのです。
話を簡潔にするために、先に核心的な部分を言いますと、「ナンバーワンではないということはつまりオンリーワンでもないのではないか」という疑問が僕にはあるのです。つまり、僕はナンバーワンとオンリーワンというのは互いに必要十分条件であると考えているのです。
もちろん全員が全員、例えば長者番付で一位とか、プロ野球でホームラン王とか、記録として客観的にナンバーワンになれるわけではありません。しかし、僕らがナンバーワンを目指すとしたら、そのときに目指すナンバーワンというのはそういった意味ではなくて、自分が属するある一定程度のコミュニティにおいて、何かの分野で他者よりも秀でている、という意味においてナンバーワンを目指すのだと思います。例えば数学はこのクラスでは誰にも負けないとか、100m走ったら学年では負けないとか。「自分のわかる範囲で」一位を目指すわけですね。この意味においてはホームラン王なども、例えばメジャーリーグなど他国にもプロリーグがあることを考えれば、その比較可能性を考慮すればNPBにおいてホームラン王だからといってホームランを打たせたら人間としてナンバーワンというわけではなくてあくまで「自分のわかる範囲で」一位であるというのに過ぎないのです。こうしてみると、ほとんどの場合真の意味でナンバーワンということはなく、相対的にといいますか、ある程度のレベルでナンバーワンを目指すということになるのです。
では次にある人が周囲の人々に「オンリーワンである」と認められるのはどういった場合においてでしょうか。ここでも先に僕の思う結論から言ってしまえば、それはまさに上述したような「ある一定のレベルでナンバーワンである場合」においてなのです。というのも、個々がみんな違って、同じ人なんていないということは自明のことであってただ単にそれを指して「オンリーワンだ」なんて通常誰も言わないと考えられるからです。したがって、「特別なオンリーワン」であるためには何かしらの意味においてナンバーワンでなければならないのであって、「元々」の違い、僕なりに言い換えれば遺伝子的な意味での違いでオンリーワンであったところで誰もそれを良しとは思わないのです。
だから「頑張っていればオンリーワンでいい」のではなく、「頑張ってナンバーワンになることによってオンリーワンになる」もしくは「頑張ってオンリーワンを目指し、結果的にナンバーワンになる」というのが実際だと思うのです(それぞれが必要十分条件である以上はナンバーワンの結果オンリーワンなのか、オンリーワンの結果ナンバーワンなのかというのはどちらでもいいでしょう)。
しかし、人々はこの歌を受けて、頑張らなくていいとまではいかないまでも、現状で満足するような傾向に陥っているように思います*1。こうして、個々は自分の個性を単に「元々」の部分にのみ求め、結果的に画一化、均質化がおしすすめられていって個性が失われていくのだと思います。そして個性が失われた結果人は社会にとって代替可能物としてしか扱われなくなり、人であり人でなくなってしまうのです。非正規雇用及びそれに対するいわゆる派遣切りなどというのはその象徴のように思えます。
個性を目指すのであればナンバーワンが最も手っ取り早いのではないでしょうか。ナンバーワンでないオンリーワンとなるのは非常に困難(僕が考える範囲では不可能)でしょう。
繰り返しになりますが、ここでいうナンバーワンは絶対的なナンバーワンではないです。ある分野においてある一定のレベルのナンバーワンです。そして僕らの目指すべきは、少しでも上位段階におけるナンバーワンなのです。ここでいくら「ある一定のレベルで」とか「自分のわかる範囲で」とは言っても、例えば家族の中で一番足が速いといったところで何の意味もないことは明らかでしょう。そしてそのナンバーワンの段階によって決まるのが社会的評価であって、収入に反映されてくるのです。
資本主義社会である以上は、ただ単に存在として自分は自分しかいないという程度の個性*2ではだめだということです。
僕が思うに、自我論などはさておき、社会的評価を得られない個性は個性と呼ぶべきではなくて、個性と呼んだにしてもその個性にすがりついて努力を怠ることは決して良い生き方とは言えないのです。

*1:もちろんこの歌がすべての原因だなんて考えていません。というよりもむしろ、そのような傾向の中でこの歌が生まれ、大衆の心理の中にスムーズに浸透していき、その傾向を少なからず強化した、という方がまだ正確でしょう。

*2:考察の側面次第ではこちらの方が重要な場合もあるかもしれませんが