今日の無駄思考

さっきたまたま小さい子が道で転んで大泣きしているところを見たのだけど、あの痛みと泣くことにはどういう因果関係があるのだろうかとふと疑問に思った。
というのも、僕らは(少なくとも僕は)ある年齢を過ぎた頃から、泣くと言うのは決まって、嬉しいときであれ悲しいときであれ、感情的なあるいは内面的な働きによってであると思っているからだ。しかし、先ほどの幼児は、一見したところによると転んだことによる傷、痛みという外面的な作用によって泣いていた。
例えば、実際、医学的に痛みの神経が泣くことと因果関係があって、大人になるにつれてそこのつながりが弱まるというような話があれば、問題はなんとでもないんだけども、とりあえず現段階ではそれがわからないから仮にそのような因果がないとすると、この場合にあっては先ほどの幼児も内面的な作用によって泣いていたことになる。
だとすればそこに生じた感情とは?
ある種の恥ずかしさとか悔しさとか、そのような感情がすでにあるのだろうか。
思うにこのような種類の感情は、単なる喜びよりもずっと複雑な感情である。なぜなら喜びは生理的欲求を満たすことで動物でさえも感じることができるかもしれないが、恥ずかしさなどはそもそも社会的な規範とかを前提とする感情であるから、高度に文明的な感情といえる。例えば裸を人に見られることそれ自体は何ら恥ずかしいことではないにもかかわらず(実際幼児期にはこの種の恥ずかしさは感じない)、次第に社会的な枠組みの中に組み込まれていく過程でそれを恥ずかしく感じるようになる。アダムとイヴだって禁断の果実を口にして知恵を獲得するまでは自分たちが裸体でいることに何ら違和感を覚えなかった。
だから、幼児がこの種の感情によって、つまり転んだということが恥ずかしいだとか悔しいだとかという感情によって泣いていたのだとしたらそれは少しおもしろいことだなぁと思った。
まぁ、医学なりなんなりの科学的説明がなされるのであれば僕のこの議論はまったくの無に帰すのだけども。