腹を空かせておけばいい

何にしても「どうせ○○なんて役に立たない」と言ってしまう人間が嫌い。嫌いというのは言い過ぎか、別にそれだけでその人のことを完全に嫌いになるわけではない、しかし、その発言が僕にとって悪い印象を与えることは間違いない。
基本的に僕らの世代では、なんだって上の世代から与えられた物を貪るばかりだ。というとわかりにくいけど、要するに例えば大学で履修する科目を自分で選んでいるったって、所詮大学側が定めた枠組みの中でうまい具合に選んでいくだけに過ぎない。なぜその科目を履修したかと聞けばそれは大概「単位のため」ってことになるんだろうけど、じゃぁなぜ大学側がそれを単位として僕らに課しているのかということは考えなければならない。答えは簡単だ。必要だからだ。
僕はやっと最近二十歳を迎えて法的には大人ということになったわけだけども、大人達から見ればどう見たってただのガキだ。別に身長が低いからとかそういうことを言っているのではない。たかが20年生きたくらいで物事の分別が何でも自分でつくだなんて勘違いしちゃならない。
大学の教壇に立つ先生を見ていると「この人は本当に賢いんだなぁ」とかまぁ逆に失礼なことを考えたりする。しかしそれと同時に「この人にも大学生の時代はあったんだなぁ」とかも考える。
大学に限らず教育というのはそれそのものが歴史だ。カリキュラムというのは先人達の試行錯誤の賜だ。現行のカリキュラムというのは現時点における最良のものである(はず)。自分よりもずっと賢くて、ずっと経験も豊富な先人達が練り上げた傑作だ。
かく言う僕も、必ずしも与えられたカリキュラムのすべてについて、それぞれ意義を見いだせているわけではない。現段階でどう考えてもなかなかわからないことというのはある。しかし、それは決して無駄なものではない。いつか何かしらの場面で役に立つであろうし、いや現在において既に、自分では認識できていないだけで大いに役に立っているかもしれないことだってある。いずれにしても、「どうせ」というのはどうせ甘えでしかない。
所詮僕らはまだガキんちょだ。年相応の自立性は求められるが、基本的に学ぶことに関しては、指をくわえてエサを与えられるのを待ち、与えられたらそれをひたすら貪ればいい。それなりの意識はあるからエサに対して好き嫌いはあって当然だけども、なんだって食えば腹にはたまる。