ブログと「意味」

 自分にとってブログとは何であるか、それがここ最近、というか、長らく僕が考えているテーマ。あくまで「自分にとって」であって、これは一般化普遍化できるものではないと思う。まぁ、社会的にブログが果たしている役割というのはとても大きなものだとは思うけど、そういうことではなくて、自分の生活とブログがどう関係しているか、というか、ブログがどういう役割をもっているのか、というか、もっとざっくりと言ってしまえば、「なんで俺ブログなんか書いているんだっけ」。
 最初はなんとなく、勉強記録のつもりで始めたこのブログもいつの間にかだらだらと自分の考えていることとかも書き始めるなどして、たまにはくだらないネタを放り投げてみたりなどして、それなりに楽しんではいたのだけど、最近、ここに何を書くかということについて非常に迷うことが多い。「これを書こう」と思い立って編集画面に向かってぱちぱちとキーボードを叩いているうちに、なんだかどうでもよくなってしまう。「これ書く意味あるのかなぁ」。そうしているうちに、以前、自分がどうやって、というか、何が楽しくて記事を書いていたのかがわからなくなってしまった。


 そもそもブログってなんだろうか、ということを考えたときに、それは僕らのような一般個人のブログは大概、自己顕示欲の塊でしかない。自分の存在を誰かに知って欲しい。自分の考えを誰かに知って欲しい。そして、実はただ知って欲しいだけでなく、認めて欲しい。承認して欲しい。だから、僕はブログは自己承認欲求を含めた自己顕示欲の表れ、というくらいに捉えている。 
 だから、書く内容なんていうのは基本的には何でもよかった。自分の存在を他に示すことが出来て、あわよくば誰かに認めて貰うことができれば、内容なんていうのは関係ない。はてダというのはその辺本当によくできていて、はてなスターで簡単にリアクションを確認できる。スターがついていれば大満足。別に、自分が何を書いて、それが誰に影響を与えているか、そんなものは本質的なところでは正直どうでもよかった。*1


 でも、最近になって、少しずつそういう見方が変わってきて、「書く意味」なんていうのを考え出してしまったのだけれども、こうなってしまったのは、以前にも触れたように、やはりtwitterの影響は大きい。だけども、以前、似たような記事を書いたときの認識は、たぶん、間違っていた。少なくとも、今は違う答えを持っている。
 というのは、以前の僕の認識としては、「自分の言いたいことはtwitterで気軽に言えてしまうから、敢えてブログの記事にして言おうと思うことなどなくなってしまう」というようなものだったのだけど、考えてもみればこれはおかしな話だ。1post140字という制限の下で、自分の言いたいことが言い尽くすことができるか、といったら、そんなわけはない(と思いたい)。そんな薄っぺらな考えのはずではない(と思いたい)。もちろん数postに分けて発言もできるけども、自分の主張を言い尽くせるかどうかという話に対して140文字で言えるか280文字で言えるかなどということを問題にするのは馬鹿げていて、普通、そういう単位ではなかなか言えない。
 問題はそうではなくて、そもそも当初ブログを書くインセンティブとなっていた自己顕示欲、それがtwitterで満たされてしまっているのだな、ということに最近になってやっと気づいた。twitterでpostして、ふぁぼってもらえれば、それで自己顕示(承認)欲が満たされてしまう。そうすると、ブログに求めるものが自ずと変質してしまう。何せ、自己顕示欲を満たすという意味ではどう考えてもtwitterの方が楽だから、ブログにはもはやそれは求めていない。もっとも、ここにきてもやはりブログの本質は自己顕示欲の表れである(と僕は捉えている)から、それがないわけではないのだけども、少なくとも、それに加えて、何らかの価値が自分にないといけない。以前は自己顕示欲を満たせればよかったのが、その役割はtwitterが担うようになってしまったから、ブログはさらなる価値が要求されてしまう。要求される、というのは、僕自身がブログに要求してしまう、ということ。


 そこで、何を求めるかと言えば、「意味」だった。「これを書く意味はあるか」なんて以前は考えなかった。今は明らかにそれを考えてしまっている。自分が今書いている文章に、何の意味があるか。そういうことを考えていると、文章を書くという作業がとてもつらくなる。どうにか意味を持たせようということばかり考えてしまう。そういうことを考えているうちに、自分にとって意味のあった何か、つまりはかつて本か何かで読んで感動したようなことを自分のものであるかのように書いてしまっている。結果的に、自分の考えなど全然言えてなくて、なんとも陳腐な文章だろう、と感じてしまう。僕はなんだ、自分の好きな本の紹介でもしているのか、それならそれでいい、でもそこまで素直になれずに、あたかも自分の考えであるかのように書いてしまう。そうして、そんな自分に嫌気がさして、そっと、編集画面を閉じる。
 この「意味」というのがなんなのか未だによくわからなくて、一時期は、「そうか、有益な(=役に立つ)情報こそが意味のある記事か」とも思ったのだけれど(そしてこれは実際にそうだと思う)、これもなんというか、果たして自分が求めている「意味」なのか、という疑問が残る答えであって。というのは、前回の記事「内部留保課税の是非」というのは、ある意味でこの辺のテスト的な意味で書いた記事でもあったんだけども、もちろん株式会社制度とそれにまつわる会計・経済なんていうのはまさに僕が今一生懸命に勉強していてこれからも専門にしていこうと思っている分野ではありながらもしかしだからといって僕が書く意味はあるのか、といったらこれも微妙な話というわけ。そういう解説記事については、どう考えたって「これから専門にしようという人」なんかよりも「現に専門である人」の発信する情報の方が「有益」であって、しかもそのそれぞれの情報に対するアクセスのしやすさなんていうのはこのインターネット上では少しの変わりもない。
 もちろん、全く同じ質の情報であっても、その発信者の特性によって読者が受ける影響が異なってくる、という事実もある程度認めている。それどころか、多少情報の質は劣っていても、専門家が発する情報よりも同年代の発する情報の方がある意味では自分にとって影響力は強い。だから、僕自身が発するからこそ、その情報自体がもつ意味とは別の意味をもつ場合もあるのかなぁ、などと考えることもある。実際、何人かの方にそのようなことを言っていただいたこともあって、純粋にものすごく嬉しかったし、励みにもなっているわけだけども。


 ただ、自分の記事にそのようなある程度の「意味」を認めることが出来たとしても、今度は「コスト」との関係のことなどを考えてしまう。ある程度の「意味」があるにしても、それによってもたらされる便益は、それにかけたコストを上回るだろうか、なんていうことを考えてしまう。コストというのは具体的には、単純に時間がもったいない気がする、とか、ひいてはそれによる機会費用なんかも考えてしまう。正直、そんなことは考えてもわからないし、まぁよくよく考えてみればくだらないことでもあるのだけども、やはりここで自己承認欲求が効いてくるのだろうか。「頑張ったのに認められない」なんていうことが怖くなってしまう。
 以前は、記事に対して「意味」を求めていなかったし、だから「頑張る」ということもなかった。しかし、「意味」を求めてしまえば必然的に「頑張る」ということになってしまって、頑張ってしまった結果、ある程度の見返りなんかを求めてしまうのだろう。


 だったらいっそのことブログなんかやめてしまえ、と思うのですが、というか、一度そう思って休止なんていう試みもしてみたわけですが、それはそれでなんか書きたい欲求なんかもでてくる。これがまたよくわからないのだけれども。
 結局まだ自分なりの答えというのも出せていないのだけども、まぁ、今回のこのエントリもそうであるように、なんか書きたくなって、書いてる途中に投げ出したくならずに最後まで書ききれたもの、それだけ適当に好きなときにupしていく、というスタンスでいいのかな。というか、ここまで来て少しは答えにたどり着いたような気もするのだけど、まぁ、ブログってそういうものなのかな。

*1:もちろん、誰かに影響を与えることができていたのであれば、この上ないことだけれども。